MRSA腸炎(Methicillin-resistant Staphylococcus aureus enterocolitis)とは、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)が腸に感染して起こる炎症性疾患です。
この細菌は通常の抗生物質に耐性を持つため、治療が難しいことで知られています。
主に入院患者や免疫力の低下した方に発症しやすく、重症化すると生命を脅かす可能性もある深刻な疾患です。
MRSA腸炎の概要
1980年代後半、日本の医療現場で特異な現象が注目を集めました。それが「MRSA腸炎」です。
この症状は、抗菌薬関連下痢症の一種として認識されていました。
特徴
主な特徴は、抗菌薬治療中の患者に発症する、下痢症状が出現する、そして患者の便培養からMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)が検出されることでした。
この現象は特に外科領域で顕著で、手術後の予防的抗菌薬投与中に発熱や下痢が見られ、MRSAが検出されるケースが多く報告されました。
1990年代前半にはMRSA腸炎に関する多数の研究論文が日本から発表されましたが、この現象はほぼ日本に限定されており、他国からの報告はほとんどありませんでした。
1990年代後半より臨床報告は減少
1990年代後半にはMRSA腸炎の報告数は徐々に減少していき、2000年代以降は臨床報告がほぼ見られなくなりました。現在では、医療機関での観察例も稀になっています。
この現象の消失について明確な理由は特定されていませんが、抗菌薬使用ガイドラインの改善、院内感染対策の強化、MRSAに対する理解の深まりなどが要因として挙げられています。
MRSA腸炎の事例は、抗菌薬の適正使用や院内感染対策の重要性を再認識させる契機となり、現代の医療実践に影響を与えています。
MRSA腸炎の症状
MRSA腸炎の主な症状は、下痢や腹痛、発熱などです。重症化すると、脱水や電解質異常、さらには敗血症につながる恐れがあります。
下痢と便の性状
MRSA腸炎の最も顕著な症状は、頻繁な下痢です。1日に数回から十数回の水様性の下痢が突然始まり、数日から数週間続きます。
便の性状は、水様性から粘液性、さらには血液が混じるケースもあります。色や臭いの変化も観察される場合があり、診断の手がかりとなります。
このような下痢が続くと、体内の水分や電解質のバランスが崩れる可能性があるため、注意が必要です。特に高齢者や基礎疾患のある方は、脱水のリスクが高くなります。
腹部症状
腹痛は、腸管の炎症による不快感や痛みが主な原因です。痛みの程度は軽度から重度まで様々で、持続的な痛みや周期的な痛みが起こります。
また、腹部膨満感や腹部不快感を伴う場合もあり、食欲不振につながります。
症状 | 特徴 |
腹痛 | 軽度から重度、持続的または周期的 |
腹部膨満感 | 腹部が張った感覚 |
食欲不振 | 食べる意欲の低下 |
全身症状
MRSA腸炎は腸管内での炎症反応を引き起こすため、全身に影響を及ぼす症状が現れます。これは体の防御反応の一部であり、感染と闘うための生体反応としてみられるものです。
38度以上の発熱は多くで見られる症状で、体内での炎症反応や免疫系の活性化により引き起こされます。
また、体が感染と闘うためにエネルギーを消費するため、全身倦怠感や脱力感も生じます。
脱水症状
頻繁な下痢により、体内の水分が失われやすくなります。
通常の飲水では補いきれないほどの水分損失が起こることもあり、脱水症状が現れます。脱水は様々な合併症を引き起こす可能性があるため、早期の対応が大切です。
具体的な症状
- 口渇
- 尿量の減少
- 皮膚の乾燥
- めまいや立ちくらみ
- 頭痛
特に高齢者や乳幼児、基礎疾患のある方は、脱水が急速に進行する可能性があるため、より慎重な対応が求められます。
重症化の兆候
MRSA腸炎が進行すると、より深刻な症状が現れます。重症化は単に症状が悪化するだけでなく、生命を脅かす合併症のリスクも高まるため、早期の認識と対応が極めて重要です。
特に高齢者や免疫力の低下した方は、重症化のリスクが高くなります。基礎疾患の有無や全身状態によっても、重症化の可能性や速度は異なります。
重症化の兆候 | 詳細 |
持続的な高熱 | 38.5度以上の発熱が続く |
血便 | 便に血液が混じる |
腹痛の悪化 | 痛みが強くなる、または持続する |
意識レベルの低下 | ぼんやりする、反応が鈍くなる |
MRSA腸炎の原因
MRSA腸炎は、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)が腸管内で異常増殖することで引き起こされる腸・腹膜疾患の一種です。
抗生物質の乱用や免疫機能の低下、長期入院などが主な要因となり、特に医療環境下での感染リスクが高いことが知られています。
MRSA腸炎の主な原因
MRSA腸炎の主な原因は、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)の腸管内での異常増殖です。
この細菌は、多くの抗生物質に対して耐性を持つため、通常の治療では除去が困難となり、腸管内での持続的な増殖につながる可能性があります。
MRSAは健康な人の皮膚や鼻腔内にも存在しますが、通常は無害であり、宿主の免疫システムによって制御されています。
しかし、特定の状況下で腸管内に侵入し増殖すると、腸炎を引き起こす原因となるのです。
MRSA感染のリスク要因
リスク要因 | 説明 |
抗生物質の乱用 | 長期または不適切な抗生物質の使用により、腸内細菌叢のバランスが崩れ、MRSAの増殖を促進する環境が形成される |
免疫機能の低下 | 高齢者、慢性疾患患者、化学療法を受けている患者など、免疫システムが弱化している場合にMRSA感染のリスクが上昇する |
長期入院 | 病院内でのMRSA曝露リスクが高まり、医療関連感染の可能性が増大する |
侵襲的医療処置 | 手術や人工呼吸器の使用などにより、体内へのMRSA侵入経路が増え、感染リスクが上昇する |
これらの要因が重なると、MRSA腸炎の発症リスクが高まります。特に医療環境下での感染に注意が必要です。
抗生物質耐性のメカニズム
MRSAは、遺伝子変異により細胞壁の構造を変化させ、多くの抗生物質の作用を無効化するという巧妙な戦略を進化させてきました。
具体的には、mecA遺伝子がコードするPBP2aタンパク質が、ペニシリン系抗生物質の標的となる細胞壁合成酵素の代わりに機能することで、抗生物質への耐性を獲得し、従来の治療法に対する抵抗性を示すようになっています。
このメカニズムにより、MRSAは通常の抗生物質治療では除去が困難となり、腸管内で増殖を続けることが可能となるのです。
MRSA腸炎の感染経路
MRSA腸炎の感染経路は多岐にわたり、様々な状況下で感染が成立する可能性があります。
主な感染経路には以下のようなものがあります。
- 医療従事者の手を介した接触感染、特に適切な手指衛生が行われていない場合に高リスクとなる
- 汚染された医療機器や環境表面からの感染、特に頻繁に触れる部分の定期的な消毒が重要
- MRSA保菌者との濃厚接触、特に医療施設や介護施設などの共同生活環境下でのリスクが高い
- 汚染された食品や水を介した経口感染、特に食品取り扱い者の衛生管理が不十分な場合に発生しやすい
これらの感染経路の理解と予防策がMRSA腸炎の発症を防ぐ上で重要であり、医療機関や介護施設などでの感染対策の徹底が求められます。
腸内細菌叢の乱れとMRSA腸炎
健康な腸内細菌叢は、病原性細菌の増殖を抑制する働きがあり、生体防御の重要な一翼を担っています。
しかし、抗生物質の使用や疾患により腸内細菌叢のバランスが崩れると、MRSAなどの病原性細菌が増殖しやすい環境が生まれて腸炎発症のリスクが高まります。
腸内細菌叢の健康を維持することは、MRSA腸炎の予防において大切な要素の一つとなります。
MRSA腸炎の検査・チェック方法
MRSA腸炎の診断では、便培養検査でMRSAを検出し、症状(下痢、腹痛、発熱など)や病歴、画像検査などを総合的に判断します。
臨床診断のポイント
- 抗菌薬使用歴
- 入院歴(特に長期入院)
- 頻回の水様性下痢
- 発熱
- 腹痛
これらの臨床所見が複数認められる場合、MRSA腸炎を疑う根拠となります。加えて、年齢や基礎疾患、免疫状態なども考慮に入れ、総合的な判断を行っていきます。
しかしながら、臨床所見のみでは確定診断に至らないため、さらなる検査が必要です。
確定診断のための検査方法
MRSA腸炎の確定診断には、糞便培養検査が必要です。糞便サンプルを採取し、選択培地を用いてMRSAの分離同定を行います。
検査方法 | 目的 |
糞便培養検査 | MRSAの分離同定 |
薬剤感受性試験 | 有効な抗菌薬の特定 |
血液検査 | 炎症マーカーの評価 |
画像検査 | 腸管の状態確認 |
補助的診断法
MRSA腸炎の診断を補助する方法として、血液検査や画像検査も有用です。
血液検査では、白血球数や CRP 値などの炎症マーカーを評価し、感染の程度を把握します。また、電解質バランスや肝機能、腎機能の評価も行い、全身状態を総合的に判断できます。
さらに、腹部X線検査や CT 検査などの画像診断により、腸管の状態や合併症の有無、腸管壁の肥厚や腹水の有無、他の腹腔内病変が検出できます。
MRSA腸炎の治療方法と治療薬について
MRSA腸炎の治療では、抗菌薬療法が主軸となります。バンコマイシンやメトロニダゾールなどの特定の抗菌薬が効果的であり、症状の重症度や状態に応じて薬剤が選択されます。
また、腸内環境の改善や水分・電解質バランスの管理も重要な治療の一環です。
抗菌薬療法
MRSA腸炎の治療では、バンコマイシンやリネゾリドなどのグラム陽性菌に対して、強力な効果を持つ抗菌薬が使用されます。
主な処方薬と投与方法
抗菌薬 | 投与方法 | 特徴 |
バンコマイシン | 経口・静注 | 第一選択薬として広く使用 |
メトロニダゾール | 経口・静注 | 嫌気性菌にも効果あり |
リネゾリド | 経口・静注 | バンコマイシン耐性株にも有効 |
ダプトマイシン | 静注 | 重症例や難治例に使用 |
補助的治療法
- 水分・電解質バランスの管理
- 腸内環境の改善
- 栄養サポート
- 腸管安静(必要に応じて)
特に、下痢による脱水や電解質異常の是正は、治療の早期段階で注意を払うべき点です。
治療経過と経過観察
MRSA腸炎の治療は、通常1〜2週間程度の抗菌薬投与が必要です。治療効果の判定には、臨床症状の改善や便培養検査の結果が用いられます。
治療経過における主なチェックポイント
時期 | 評価項目 |
治療開始直後 | 臨床症状(下痢の頻度、腹痛など)の変化 |
治療中期 | 便培養検査、血液検査による炎症マーカーの推移 |
治療終了時 | 症状の消失、便培養検査の陰性化 |
治療後の定期観察 | 再発の有無、腸内細菌叢の回復状況 |
治療終了後も、一定期間の経過観察が大切です。
MRSA腸炎の治療期間と予後
MRSA腸炎の治療期間は通常2〜4週間程度ですが、個々の状態により変動します。予後は概ね良好ですが、高齢者や免疫不全患者では重症化のリスクが高まるため、より慎重な対応が必要です。
治療期間
MRSA腸炎では、一般的に、軽症から中等症の場合は2週間程度の抗菌薬投与で改善が見られることが多いです。
ただし、重症例や基礎疾患を有する場合、4週間以上の長期治療が必要となる場合もあります。
治療の経過中は、臨床症状の改善や便培養検査の結果をもとに、担当医が治療期間を調整します。
治療期間に影響を与える要因
要因 | 影響 |
感染の重症度 | 重症例ほど長期治療が必要 |
患者の年齢 | 高齢者ほど回復に時間がかかる傾向 |
基礎疾患の有無 | 合併症がある場合は治療が長引く |
薬剤感受性 | 耐性菌の場合は治療に時間を要する |
治療経過中は、定期的な便培養検査や血液検査を行い、感染の状態や全身状態に基づいて治療の継続や変更、終了が判断されます。
予後
MRSA腸炎の予後は、治療により概ね良好とされていますが、個々の患者によって異なる点に注意が必要です。
特に、高齢者や免疫不全患者では、重症化や合併症のリスクが高まります。
長期的な経過と再発予防
MRSA腸炎の治療が終了した後も、一定期間の経過観察が重要です。
経過観察の項目 | 頻度 |
便培養検査 | 治療終了後1〜2ヶ月 |
腸内細菌叢の回復確認 | 3〜6ヶ月後 |
再発症状の有無確認 | 定期的に実施 |
薬の副作用や治療のデメリットについて
MRSA腸炎の治療には、副作用やリスクが伴います。特に、長期的な抗菌薬使用による耐性菌の出現や、腸内細菌叢の乱れによる二次感染のリスクが高まる可能性があります。
また、高齢者や基礎疾患を持つ場合は治療に伴う合併症のリスクが増大するため、慎重な経過観察が求められます。
抗菌薬治療に伴う副作用
抗菌薬治療で特に注意すべき副作用として、消化器症状や皮膚反応が挙げられます。
副作用 | 主な症状 |
消化器症状 | 悪心、嘔吐、下痢 |
皮膚反応 | 発疹、かゆみ、蕁麻疹 |
耐性菌出現のリスク
長期的な抗菌薬使用は、耐性菌の出現リスクを高める可能性があります。耐性菌の出現は治療の難航や感染の拡大につながる恐れがあるため、慎重に抗菌薬の選択と投与期間を決定します。
腸内細菌叢の乱れと二次感染
抗菌薬治療は、腸内細菌叢のバランスを崩す場合があります。これにより、有益な細菌が減少し、病原性細菌が増殖しやすい環境が生まれる可能性があります。
腸内細菌叢が乱れると、消化器症状の悪化や栄養吸収の低下を引き起こすだけでなく、クロストリジウム・ディフィシル感染症などの二次感染のリスクを高める可能性があります。
リスク | 影響 |
腸内細菌叢の乱れ | 消化器症状の悪化、栄養吸収の低下 |
二次感染 | クロストリジウム・ディフィシル感染症など |
腸内細菌叢の乱れを最小限に抑えるため、プロバイオティクスの併用を検討する場合もあります。
高齢者や基礎疾患を持つ患者さんのリスク
高齢者や基礎疾患を持つ患者さんでは、MRSA腸炎の治療に伴うリスクがさらに高まります。
- 腎機能低下による薬物代謝の変化
- 肝機能障害による薬物毒性の増大
- 免疫機能低下による感染症の重症化
- 薬物相互作用のリスク増大
例えば、腎機能が低下している場合には、抗菌薬の投与量や間隔の調整が必要です。また、肝機能障害がある患者さんでは、薬物毒性のモニタリングをより頻繁に行う必要があります。
保険適用と治療費
以下に記載している治療費(医療費)は目安であり、実際の費用は症状や治療内容、保険適用否により大幅に上回ることがございます。当院では料金に関する以下説明の不備や相違について、一切の責任を負いかねますので、予めご了承ください。
MRSA腸炎の治療費は、症状の重症度や入院期間によって大きく変動します。一般的に入院治療が必要となるため、高額な医療費がかかる可能性があります。
入院治療にかかる費用
MRSA腸炎の治療では入院が必要となる場合が多く、その期間は症状の改善具合によって異なります。
通常、1週間から4週間程度の入院が必要となる場合が多いですが、状態や合併症の有無によってはさらに長期化します。
入院期間 | 概算費用(3割負担の場合) |
1週間 | 10万円〜15万円 |
2週間 | 20万円〜30万円 |
4週間 | 40万円〜60万円 |
抗菌薬治療の費用
MRSA腸炎の治療には、特殊な抗菌薬が使用されます。これらの薬剤は通常の抗生物質よりも高価であり、治療費の大きな部分を占めます。
使用される抗菌薬の種類や投与期間によって費用は変動しますが、一般的に1日あたり5,000円から10,000円程度が目安となります。
検査費用の目安
- 便培養検査 3,000円〜5,000円
- 血液検査 5,000円〜10,000円
- 腹部CT検査 15,000円〜20,000円
- 内視鏡検査 20,000円〜30,000円
これらの検査は、症状の経過に応じて複数回実施されます。状態によっては追加の特殊検査が必要となる場合もあり、その際には検査費用が増加します。
追加治療の費用
重症例では輸液療法や栄養療法が必要となる事があり、これらの治療にも追加の費用がかかります。また、合併症が発生した際にはさらなる治療が必要となり、費用が増加する可能性があります。
追加治療 | 概算費用(1日あたり) |
輸液療法 | 5,000円〜10,000円 |
栄養療法 | 3,000円〜8,000円 |
以上
参考文献
OGAWA, Yukari, et al. Methicillin-resistant Staphylococcus aureus enterocolitis sequentially complicated with septic arthritis: a case report and review of the literature. BMC Research Notes, 2014, 7: 1-7.
LOERKE, Christopher; LIEBE, Heather; HUNTER, Catherine J. Methicillin-resistant Staphylococcus aureus enterocolitis in a 16-month-old boy: a case report. Journal of Medical Case Reports, 2022, 16.1: 155.
射場敏明, et al. 重症術後 MRSA 腸炎の検討. 日本消化器外科学会雑誌, 1992, 25.5: 1329-1333.