ご自身の病気について深く知ることは、治療を選択し、向き合っていく上で大きな力になります。
近年、がん治療は「どの臓器にできたがんか」という従来の分類だけでなく、「がん細胞がどのような遺伝子の特徴を持つか」という、より個人に合わせた視点で行うことが多くなりました。
これを「分子生物学的分類」と呼びます。この分類は、がん細胞の設計図である遺伝子や、細胞の振る舞いを決める分子の情報を基に、がんを細かくグループ分けする考え方です。
このアプローチによって、なぜ特定のがんに特定の薬が効くのか、あるいは効かないのかが明らかになり、より効果的な治療法の選択に繋がります。
この記事では、分子生物学的分類の基本となる考え方を、できるだけ分かりやすく解説します。
遺伝子変異による分類
私たちの体は無数の細胞から成り立ち、その一つ一つの細胞の働きは遺伝子によってコントロールされています。
がんは、この遺伝子に何らかの傷がつくこと(遺伝子変異)で、細胞が異常に増え続ける病気です。
遺伝子変異にはさまざまな種類があり、その変異のパターンを調べることで、がんの性質をより深く理解し、分類することが可能です。
この分類は、がんの発生や進行の根本的な原因に迫るものであり、治療方針を決定する上で重要な情報を提供します。
がん遺伝子とがん抑制遺伝子
遺伝子変異を理解する上で、まず「がん遺伝子」と「がん抑制遺伝子」という二つの重要な登場人物を知ることが大切です。
これらは、車のアクセルとブレーキの関係によく例えられます。両者のバランスが取れていることで、細胞の増殖は正常に保たれます。
暴走するアクセル-がん遺伝子
がん遺伝子は、本来、細胞の増殖を促すアクセルのような役割を担う遺伝子です。
この遺伝子に変異が起こると、アクセルが踏みっぱなしの状態になり、細胞に対して「増え続けろ」という命令が止まらなくなります。その結果、細胞は無秩序に増殖を始め、がん化します。
壊れたブレーキ-がん抑制遺伝子
一方、がん抑制遺伝子は、細胞の増殖にブレーキをかけ、異常な細胞が増えすぎないように監視する役割を持ちます。
この遺伝子に変異が起こると、ブレーキが効かなくなり、増殖の命令を止めることができなくなります。がん遺伝子の暴走と、がん抑制遺伝子の機能不全が重なることで、がんの発生や進行が進んでいきます。
遺伝子パネル検査の役割
患者さん一人ひとりのがん細胞が持つ遺伝子変異を特定するために、「遺伝子パネル検査」を行います。この検査では、がん組織や血液を用いて、一度に多数の遺伝子を網羅的に調べます。
検査の結果、治療薬の選択に繋がる特定の遺伝子変異が見つかることがあります。これにより、一人ひとりの遺伝子情報に基づいた、より個人に合わせた治療の提供を目指します。
遺伝子変異の種類と特徴
遺伝子変異の種類 | 特徴 | 治療への関連 |
---|---|---|
点突然変異 | 遺伝子配列の一つの塩基が別のものに置き換わる変異 | 特定の分子標的薬の効果予測に関わる |
融合遺伝子 | 複数の遺伝子の一部が融合してできる異常な遺伝子 | 融合遺伝子を標的とする薬剤の選択基準になる |
コピー数異常 | 遺伝子の数(コピー数)が増えたり減ったりする状態 | 特定の遺伝子の増幅が治療薬の標的になることがある |
分子標的による分類
がん細胞の表面や内部には、その増殖や生存に深く関わる特定の分子(主にタンパク質)が存在します。これらの分子を「分子標的」と呼び、その有無や量の違いによってがんを分類する方法があります。
この分類方法は、特定の分子だけを狙い撃ちする「分子標的薬」という治療薬の開発と密接に関連しています。
がん細胞の特徴的な目印を見つけ出し、それを標的にすることで、正常な細胞への影響を抑えながら、がんの増殖を効果的に抑えることを目指します。
分子標的とは何か
分子標的は、がん細胞が持つ特有の「目印」や「弱点」と考えることができます。
正常な細胞にはないか、あっても量が少ないため、この分子を攻撃することで、がん細胞に選択的に作用する治療が成り立ちます。
がん細胞の増殖に関わる分子
がん細胞は、増殖するための命令(シグナル)を細胞内で伝達しています。このシグナル伝達に関わる分子が異常に活性化している場合、それが分子標的となります。
この分子の働きを薬で阻害することで、がん細胞の増殖シグナルを遮断し、増殖を止めたり、細胞を死滅させたりします。
分子標的薬の作用
分子標的薬は、まるで鍵と鍵穴のように、標的とする分子に特異的に結合し、その働きを妨げます。
従来の抗がん剤が、細胞分裂が速い細胞を無差別に攻撃する(がん細胞だけでなく、正常な髪の毛の細胞や粘膜の細胞なども攻撃する)のに対し、分子標的薬は標的分子を持つ細胞を中心に攻撃するため、副作用の種類や現れ方が異なります。
代表的な分子標的
分子標的 | 主ながん種 | 薬の働き |
---|---|---|
EGFR | 肺がん、大腸がんなど | がん細胞の増殖シグナルを伝える受容体の働きを阻害する |
HER2 | 乳がん、胃がんなど | がん細胞の増殖を促すタンパク質の働きを阻害する |
ALK | 肺がんなど | 異常な融合遺伝子から作られるタンパク質の働きを阻害する |
これらの分子標的があるかどうかを調べることで、分子標的薬が効く可能性が高いかどうかを予測し、治療方針を立てていきます。
検査は、手術や生検で採取した組織を用いて行います。
免疫学的特性による分類
私たちの体には、細菌やウイルスなどの異物だけでなく、がん細胞を攻撃して排除する「免疫」という優れた防御システムが備わっています。
しかし、がん細胞は巧みにこの免疫の監視から逃れる術を身につけます。
がん細胞がどのように免疫から逃げているのか、その特性を調べることでがんを分類し、免疫の力を利用してがんと戦う「免疫療法(免疫チェックポイント阻害薬など)」の効果を予測しようとするのが、免疫学的特性による分類です。
がん細胞と免疫システム
免疫システムの中心的な役割を担うのがT細胞などの免疫細胞です。免疫細胞は、がん細胞を異物として認識し、攻撃します。
しかし、がん細胞は、免疫細胞にブレーキをかけることで攻撃を回避することがあります。
免疫チェックポイント分子の役割
免疫の働きが過剰になり、正常な細胞まで攻撃しないように、私たちの体には免疫の働きを適切に調節する「ブレーキ役」の分子が存在します。
これを「免疫チェックポイント分子」と呼びます。
がん細胞は、このブレーキ役の分子(PD-L1など)を自らの表面に多く発現させ、免疫細胞(T細胞)にある対応する分子(PD-1)と結合することで、免疫細胞に「攻撃するな」という偽の指令を送り、攻撃から逃れます。
免疫学的分類の指標
免疫療法が効きやすいかどうかを判断するために、いくつかの指標を調べます。
これらの指標は、がん細胞がどれだけ免疫システムに認識されやすいか、また免疫のブレーキがどれだけかかっているかを示唆するものです。
- PD-L1の発現レベル
- マイクロサテライト不安定性(MSI-High)
- 腫瘍遺伝子変異量(TMB-High)
例えば、PD-L1の発現レベルが高いがんは、免疫のブレーキが多くかかっている状態と考えられ、そのブレーキを外す免疫チェックポイント阻害薬の効果が期待できます。
MSI-HighやTMB-Highのがんは、遺伝子変異が多く、免疫細胞が「異物」として認識しやすい特徴を持つため、同様に免疫療法の効果が高いと期待されます。
免疫学的指標とその特徴
指標 | 評価する内容 | 治療への関連性 |
---|---|---|
PD-L1 | がん細胞や免疫細胞におけるPD-L1タンパク質の発現量 | 免疫チェックポイント阻害薬の効果予測に用いる |
MSI | 遺伝子複製の際に生じるエラーを修復する機能の異常 | MSI-Highの場合、免疫チェックポイント阻害薬の高い効果が期待される |
TMB | がん細胞が持つ遺伝子変異の総数 | TMB-Highの場合、免疫細胞ががんを認識しやすく、治療効果が高い傾向がある |
よくある質問(Q&A)
- この分類はすべてのがん患者に行うのですか?
-
必ずしもすべてのがん患者さんに行うわけではありません。がんの種類や進行度(ステージ)、体の状態などを総合的に判断し、遺伝子パネル検査や関連する検査の実施を検討します。
特に、標準的な治療が効きにくくなった場合や、希少がんなどで治療法の選択肢が限られる場合に、有効な治療法を見つける目的で行うことが多いです。
主治医とよく相談することが大切です。
- 検査にはどのようなものがありますか?費用はどのくらいかかりますか?
-
遺伝子変異を調べる「遺伝子パネル検査」や、特定の分子標的や免疫学的指標を調べる検査などがあります。これらの検査の多くは、保険診療で行うことができます。
ただし、保険適用の条件は細かく定められているため、ご自身が対象となるか、また自己負担額がどの程度になるかについては、主治医や病院の相談窓口で確認してください。
- 遺伝子変異が見つかったら、必ず分子標的薬が使えますか?
-
治療薬の選択肢となりうる遺伝子変異が見つかったとしても、必ずその薬が使えるとは限りません。その薬剤が、患者さんのがん種に対して国から承認されている必要があります。
また、薬の効果や副作用、患者さんの全身状態などを考慮して、最終的に使用するかどうかを主治医が判断します。
- 分類の結果は変わることがありますか?
-
はい、変わる可能性があります。がんは治療を続ける中で、その性質を変化させることがあります。
例えば、ある分子標的薬が最初は効いていても、がん細胞が新たな遺伝子変異を獲得することで、その薬が効かなくなる(耐性を持つ)ことがあります。
そのため、治療経過によっては、再度、生検などを行い、がんの組織を調べて治療方針を見直すこともあります。
この記事では、がんの「性質」に注目した分子生物学的分類について解説しました。
一方で、がん治療の方針を決める上で、がんが体のどのくらいの範囲に広がっているかを示す「臨床的分類(ステージ分類)」も同様に重要です。
がんの性質(分子生物学的分類)と広がり(臨床的分類)の両方を理解することで、ご自身の状況をより多角的に把握し、納得のいく治療選択に繋がります。
がんの臨床的分類について詳しく知りたい方は、以下の記事もあわせてご覧ください。
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